オッス!オラ吐瀉夫!
世間は父の日だそうですね。
普段は家族に虐げられがちなお父さんも今日は、家族に労われて欲しいですね。(勝手な偏見です)
僕には現在、父がいないのですが、とても大好きだった父。
今週のお題「お父さん」ってことですし、今日は思い出と父との別れを語ろうと思います。
九州の片田舎。
僕は3兄弟の次男坊として生まれました。
生まれてすぐに町内で一度引っ越しをして、小学校に上る直前に近所に今の実家を建てて引っ越したので、同じ町内で2回引っ越しを経験していますが、最初の引っ越しは覚えていません。
母から聞いた話ですが、兄は初めての子として厳しく育てられ、次男の僕が生まれた時はかなり子煩悩になっていたそうです。
そのせいか、僕は父と二人きりで遊園地に行ったり、一緒にゲームをしたりといった思い出が沢山あります。
逆に弟の時には父はあまり構ってあげられなかったようで、弟にとっての父の印象は「怖い人」だったそうです。
兄にとっても「厳しい人」だったようで、兄弟3人それぞれ父に抱く印象の違いに驚きます。
3兄弟の中で、兄と弟は顔など父に似ていて、僕は母に似ています。
しかしながら、性格は僕が一番父に似ているらしく、母はよく昔の父の話を聞かせてくれました。
我ながら、すぐふざけてひょうきんな所は酔った時の父そっくりだと思います(笑)
普段、怖いところとかも(僕は顔だけは怖いらしいよ)。
今思うと父はきっと少ない稼ぎながらも、家族を守り、家を建てたのですから凄いなと、僕もこの年になってその凄さがよく分かります。
今じゃ、僕が生まれた時の父の年齢を超えている。
妊活をしている最中ですが、正直子供3人も抱えて、家を建てるなんて無理です。
父を超えるのは無理だぜ…。
父は、とてもオセロが強かったのをよく覚えています。
何度やっても勝てなかったし、勝てないどころか、打てなくなるんですよね。
そんな父とよくオセロをしていたせいか、小学校内でやったオセロの大会では4年生ながら上級生を抑えて校内一位になった僕です。
あとはシューティングゲームが父は大好きで、セガサターンの「ストライカーズ1945」を二人でしこたまやりました。
(久しぶりにやりたくなって調べたらSwitch向けに彩京コレクション的なものでreleaseされてるんですね…Switch抽選ずっと外れてる…)
そんな父の影響で、ストライカーズ1945→パンツァードラグーン→007ゴールデンアイ→HALO→COD→BFと言うように、今ではFPSにドップリな僕です。
楽しい思い出が沢山で、二人だけで釣りやキャンプによく連れて行ってもらったし、家族の中で一番父と仲が良かった自信があります。
しかし、少し残念な思い出もあって。
あれは確か、小学校高学年くらいの頃だろうか。
父がふと僕に聞いたことがあったんです。
「早く帰って来てほしいか?」
と。
当時の僕は、少し強がって「ううん、遅くていいよ」なんて言ったのを覚えています。
それ以来、父は残業で帰るのが遅くなりました。
今考えれば、少しでも家計に余裕をもたせようと頑張ろうか悩んでいたのかもしれません。
それでも、土日とかは一緒によく遊んでもらってはいたのですけどね。
中学に上がると土日は部活の練習や試合で、なかなか父と過ごす時間は取れなくなってしまいましたね。
中学に上がると、父の部屋を僕がもらい、父は自室を失いました(笑)
でも母と一緒に寝るようになったので、それは良かったのかと思います。
僕も父のレコードプレイヤーやギターのある部屋を受け継いで、少し嬉しくもありました。
そんな僕も高校に上がり、高1の冬を終えて進級前の春休みに入る直前のことでした。
夜に自宅の電話が鳴り、電話に出ると珍しく父からの電話。
父は僕に「お母さんはいるか?」と聞きました。
母は風呂に入っていたため「今、風呂に入ってるよ」と返すと、父は「そうか、分かった」と言って、電話は終わりました。
その夜、父は帰ってきませんでした。
翌日、いつものように僕は学校に通って授業を受けていると、学校に母から電話がありました。
当時は、携帯電話もまだそこまで普及していなかったので(クラスに数人持ってるか持ってないか)、担任の先生が要件を聞いたそうで、「とにかく急ぎ、自宅へ帰れ。お母さんが待っている。」と言われました。
嫌な胸騒ぎというか、予感というか、そういう気持ちになったんです。
急いで自宅に帰ると、父の亡骸のそばで泣き崩れている母と兄と弟がいました。
「ああ、やっぱりな」という感情が最初に出たような記憶があります。
自宅に帰るまでに色んな最悪のパターンを考えてたうちの一つ。
父の死。理由は分からないが、家に帰ってこなかった、急な呼び出しから、導き出した最悪の想定。
これが最初か分かりませんが、僕はよく身近の大事な人の死だったりを時折考えることがあり、その時に泣いてしまうんです。
ただ、そのおかげというか、自分の感情はそれを一度考えてしまっているので、泣き崩れる家族と温度差が生まれてしまいました。
だから家族のそばにいるのが辛く、自分の部屋に入り、ベッドに倒れ込んで天井を無心で見上げ、ただ音楽を聞いて過ごしていました。
そこからは、通夜、葬式が執り行われていきました。
棺桶に父を運び入れる時に、足を持って分かった遺体の冷たさ、硬さ。
父だった人が、父だったモノになってしまったという感覚。
丁度、思春期真っ盛りだったからでしょうかね。
家に帰ってから、葬式が終わるまで、いや…20歳を超えるまで、父の死で涙を流すことをありませんでした。
親戚からは「冷たい子」だと罵られました。
誰よりも父と仲が良かったし、「お前らに俺と親父の関係の何が分かるってんだ」と強く不満を抱きましたね。
自殺だった父。
遺書も無く、明確な理由は分からなかったけど、色々な事に疲れたんだと思います。
あの時、電話に無理矢理にでも母を出していれば。
あの時、残業なんかせずに家に早く帰って欲しいと言っていれば。
父は、死を選ばず、家族を選んでくれたのかも知れない。
もっと、こっちを向いてくれたかも知れない。
考えないようにしているけれど、父を思い出す時に、心の奥にはいつもその気持ちがある。
僕も今、自分の仕事ひとつで妻を養っている中、少しだけ孤独感とプレッシャーを感じることがある。
仕事と、家族と向き合って、生きていかなきゃいけないこの時代に。
対話無くしては、上手くいくわけがない。
父にもっと腹を割って話してほしかった。
悩んでいることがあれば相談してほしかった。
先進国でサラリーマンの平均賃金が下がり続けるこの日本において(女性は増加傾向ではある)、男性が昔ながらの価値観で働き、家計を支えるのは難しいと思うんです。
僕も、嫁の拘りで今、この地から離れられないのですが、いつかは僕のキャリアのため、家計のためにも、話し合う必要があると覚悟している。
本当に辛いことや悩んでいることを打ち明けずに、良いことだけを共有しているだけじゃ、正しい家族じゃないなと、父の死を持って僕は知ることが出来た。
8年間レスだった嫁さんとも、腹を割って話して、今じゃ妊活が出来ている。
もう、会うことも、言葉も交わすことも出来ないけど、様々な気付きを与えてくれた父へ感謝と尊敬を。
いつか、そっちに行ったら酒でも飲もう。
アルコールアレルギーなもんで、この体じゃ酒飲めないし。
親父。酒の旨さを教えてくれよな。
その時のため、色んな事を語れるように。
この歌を常に心に刻みつけて生きていく。